昭和45年11月22日    朝の御理解

御理解第4節
 此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神というにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。

 教祖様、金光大神様のおかげで天地金乃神様が助かられるようになった。教祖金光大神様の御信心によって、神が世に出たのであると仰っておられますね。ね、天地乃親神様が、ね、その此方金光大神と言うお方はどういうようなお人柄であり、どういうようなまた御信心をなさったお方であろうか。天地金乃神様が助かられるほどしのお方。同時にその御信心、いわばそのお取次ぎによって、私どもも助かることができるようになった。
いわゆる神様が助かられ、人間が助かり、なるほど両方からの恩人だということがわかります。金光様の御信心を頂くにあたっては、やはりここのところがよく分かっておかなければならん。ね、そこでお互いが助けて頂きたい、お互いがおかげを受けたい、そこで生神金光大神のお取次ぎを頂くわけであるが、いわゆる金光大神のお取次ぎを頂くと、金光大神にお取次ぎを願うと言うことになるわけですね。そこでお取次ぎを願わしてもらう、そこから金光大神ご自身が助かってみえた信心の体験、金光大神ご自身が踏み行うておられるいうなら人間の真の助かりの姿というものを手本にして私どもにお取次ぎを下さるわけです。
ね、ご自身が助かられる。教組生神金光大神が、まず天地金乃神様からおかげを受けられる、そのおかげを受けられた受けられ方、ね、を話にしてくださる。金光大神の言うことにそむかぬよう良く守ってということは私はそういうことだと思う。ね、ですからそこんところがいわば信心のいわば焦点にならなければならないところです。ね、金光大神の言うことにそむかぬようと。なら金光大神はどのようなことを教えてくださるかと言うと、金光大神ご自身が助かられた、教祖様がご自身がお助かりになった助かられ方と言うか助かっていく道と言うか、それを説かれた。お取次ぎを願うと、ね、例えば私ども様々な難儀な問題と言うかね、をお取次ぎを願うわけです。すると神様はお取次ぎを、教祖様はお取次ぎをしてくださる。
そしてその御自分が助かられた、助かった自分のいうなら体験を聞かせてくださる。
天地金乃神様からおかげを受けたことを話にして残しておくとこう仰るように金光大神様が天地の親神様からおかげを受けられたおかげの話をしてくださる。だからそれを私どもが頂いて帰るのである。ね、お取次ぎを願う、そこから今度お取次ぎを頂くということになってくる。だからここんところのお取次ぎを願う、頂くというところがです、金光様の御信心の一番素晴らしいとこだと思うんです。ね、たとえて言うと、ま、ほとんどの信心が神様やら仏様に願うというだけの信心であった。
いゃ神やら仏やらちゃ、願うもののように思うておった。
人間が頼むだけのことのように思うておった。ところが金光大神ご出現によって天地金乃神様が助かられるようになった。ね、天地金乃神様が助かられるようになるということはどういういことかと言うと、天地金乃神様が病気しておられたわけでもなからなければ、、食うに困るというておられたわけでもないのである。
ね、天地金乃神様が助かられるということは、ね、天地金乃神様が世に出られたということ。今までは、ね、天地金乃神様などという名称すらなかった。どんなに神様のいうなら戸籍謄本といったものがもしあるとするならです、ね、そういうものは今までかってなかった。それが教祖金光大神様の御信心によって現われなさることができる。そこでいわゆる立教神伝ということになった。立教神伝と言うのは天地金乃神様が教祖金光大神様にご依頼をなさった。ね、それが立教神伝である。この弊切境に肥灰差し止めるからその分に承知してくれと、家業をいたし農業へ出、というあれなんだ。ね、この幣を切境にどうか一つ神を助けると思うて難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれんかという御相談があったわけです。
ね、ですから神様が助かったと仰しゃられるのはね、そこに氏子が助かるということなんです。氏子が取次ぎ助けられるように、世の中に難儀な氏子がたくさんある。その難儀な氏子が金光大神の取次によって助けられることになる。だから一つ欲徳を離して天地金乃神を助けてくれんかと仰った。
ね、ですから天地金乃神様は私どもが金光大神の取次によって私どもが助かる。ね、金光大神の取次によって助かる、そのことが天地金乃神様の助かりであることが立教神伝から分かるでしょう。ね、世の中に難儀な氏子がたくさんあると、どうぞ取次ぎ助けてやってくれとこう。ね、氏子が助からなければ神が助からんのじゃと。そして立教神伝の最後の所にあります。神も助かり氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行くと、ま、なんと言う素晴らしいことだろうかと、ね。神と氏子があいよかけよで立ち行く世界、そういう世界が顕現されてくる。言うならば全世界のいわば人間氏子がです、金光大神の御取次ぎを頂いて助かっていくということの願いなのです。しかもそれはどういうことかと言うとね、そのことがです、末々親にかかり子にかかりと、あいよかけよで立ち行くことのために。ね、神様と私どもの関係をこのように教えておられる。ね、氏子あっての神、神あっての氏子、ね。だから金光大神がおられ、または天地金乃神様がそこにあられましても、例えばなら金光様、金光様とたとえばならお唱えをする信心がそこにありましてもです、神様が助かっておいでになるような助かり方にならないとです、神も助かりということになって来ない。金光様の信心は頂いておっても、おかげは受けておっても、ね、ほんとにおかげを頂いた、けれどもそのおかげを頂いたというそのおかげがね、神も助かりということにつながっていなかったらね、いわゆる金光様の御信心のいわゆる神様が喜んで下さるということになって来ない。いわゆる最後んところに、親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く、子供の助かりはそのまま親の助かりなんだ。ね、私どもが助かるということがそのまま親の助かりであるというような助かり方と言うのはどういういことであろうかと。ただ子供が立身出世をする。ね、そこに親の喜びがあり満足がある。
ね、ところがあんまり子供が助かりすぎてから、親が子供のそばに寄りつけんごたある助かり方は、しておるような場合すらあるのです。
ね、そうなって参りますとね、これは神も助かりということになって来ない。ね、親にかかり子にかかり、ね、あいよかけよで立ち行くというような助かり方を私どもは願うのである。
金光大神の言うことにそむかぬように良く守って信心せよと。だから金光大神は天地金乃神様も助かられまたは氏子も助かっていく、いわば仲立ちと言うか、ね、お取次ぎをしてくださるわけです。そこで金光大神の言うことにそむかぬように、金光大神の教えてくださることに素直にそれを頂いていこうという姿勢ができない限りです、天地金乃神様は助かんなさらんです。お願いをしておかげを頂いた、お願いしておかげを頂いただけではね、天地金乃神様の助かりにはならん。ね、そこで金光大神の言うことにそむかぬようと言うところ。ね、お取次ぎを願わしてもろうておかげを頂いたというだけではです、だから神の助かりにならないということ。
お取次ぎを願っておかげを頂いたことがです、ね、おかげになるのである。お取次ぎを願って今度はお取次ぎを頂いて帰る。そのお取次ぎを頂くということがね、金光大神の言われることを頂いて帰るということなのだ。
どうでしょうか、金光大神の言われることを頂いて帰りよる、なるほど皆さんこうして頂いておられるわなんですよね。ここ私がお話ししておるけれども、これはそのまま金光大神が言うてくださっておるのだと。ね、ですからそこの所をです、頂いて帰る。そこから生活が変わってくる。ね、そこからものの見方が変わってくる、考え方が変わってくる。ね、今まで苦しいと思うておったことが苦しくない。かえって有難い、そういう助かりになってくる。ね、そういう助かるこそをです、ね、神様が願っておられるのである。よく守って信心せよ。だからまさかの時には、天地金乃神助けて、天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやると最後んところは仰るが、もう金光様の御信心をこうやって頂いておればね、させて頂きよればです、もうまさかん時には金光様ち言ゃよかと言うのじゃないわけなんです。
いくら金光様と言うたって、神様がおかげは下さる、それでけである。
けども、あーた、まさかん時には金光様、天地金乃神ち言うことはいらん、金光大神助けてくれと言えば助けてやるとここに言うちゃるじゃないですか。うん、言うてはおる。けれどもその前がある。金光大神の言うことにそむかぬようにということがある。金光大神の言うことにそむかぬように信心をして。ね、毎朝お参りをする、お願いをする、または御教えを頂いて帰る。その頂いて帰ったことがその人なりにです、ね、それぞれの生活の上にそれが現わされるということがです、金光大神の言うことにそむかぬようによく守って信心生活をしていくことになるのである。
ね、そういう日々、そういう信心生活、ね、ができておるからこそまさかの時には天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれ、いわゆる金光大神助けてくれと言わんでも、金光様の金一字でもよか、ね、口に言わんでも、心に思うただけでもよか。助けてくださる。ね、一番最後のところだけを金光大神助けてくれと言えば助けてやるだけではいけないわけです。
ね、事実はね、事実は例えばなら金光大神の言うことにそむかぬようにと仰っておられる教えを頂いて、その教えが実生活に現わされてはいなくてもです、もう実際のことは金光大神助けてくれと、いわゆる金光様とこうお唱えしただけでその霊験を頂くという事実はたくさんありますよね。
もうあのこれは6,7年も前だったでしょうかね、まだ椛目の時代、福岡の高橋さんの奥さんの弟さんで、ちょうど日曜でその九重の方にドライブに行くんだと。友達5人で買うたばかりの車に乗ってお出でられることになった。ほいでとにかくもう僕はいつもお参りしておる金光様にお願いをしてまいろうと言うのでね、その行き道、福岡から椛目に出て見えて、お願いをしてご神米を頂いて行かれた。ね、それからこう日田から、日田の方をずーっと通ってダム、それをちょうどね、みんなが運転されるので、ほんな一番新しい運転免許取ったばかりのと変わった。途端にね、自動車がそのダムの中にまあ、落ち込む寸前のところでおかげ、、ごろごろごろごろひっくり返っていって、後ろの車がね、ちょっとした枝にひっかかっとるだけじゃった。下にはもう水が見えよるところまで落ちていった。もう自動車がこうころころ転んで行ったもんですから、もうぼろぼろにそのガラスは割れて、それを写真にとってから、それをもってお礼に出て見えられましたがね。ほんのに後ろの車がたとえば一寸前の方で落ちとったらね、もうダムの中にそのまま沈んで行くことだろうとこう思う。その写真がここに撮ってありますよ。まあそういう例はまあいくらもありますよね。それでみんな5人の者がドアを開けてから這い上がって来てから、上がってみてそれこそ背筋が寒くなるような思いをされた。後ろの車がちょっと木にひっかかっているだけじゃった。ま、それで引き揚げてもろうて上がっが別に機械はどんなかったから、もう行かずにそのままお礼に出てこられた。
ほんとにもう今日、例えばそん時に金光様が出たかどうか分からん。けどもただ行きがけにお願いをして行ったというだけでね、5名の者の命が助かった。ですから言うならばほら金光様て言わんでん助かると。そういう事実がある。ね、けどもそういう助かりではね、いうならば神様は、神も助かりということにはならんのです。ね、あいよかけよの助かりにならん。神様も助かり氏子も立ち行くということにならん。
ね、事実は例えば天地金乃神と言わんでも、金光大神と言うただけでも、いゃ金光大神と言わんだけでも、思うただけでもいゃ思わんでも、ね、出がけにお願いをしていきゃ、それで助かるというようなそのおかげは受けるけれども、そういうおかげではです、ね、神も立ち行くということにならない、神も助かりということにならない。
ね、私どもは常日頃、ね、金光大神の言うことにそむかぬよう良く守っての信心がでけて行くというところに神も助かりということになってくる。
ね、神も助かり氏子も立ち行くという助かりは、そういう助かり。ね、そこにはね、どういうことになるでしょうかね。いわゆる神様のいうなら御信用と言うかね、御神徳を受けていく道なんだ。金光大神の言うことにそむかぬよう、背かぬ生き方と言うのは。
ね、ところがなかなか実際はなかなか背いてばっかり、いうなら、背信行為ばっかりしているわけなんです、お互いが、ね。そこでいわばお詫びが、お詫びと言うことになってくるし、またせめてここのところだけはと、ま、たとえば今日の御理解なら御理解を頂いて、せめて一ところだけでも、ひとつ今日の生活の上に頂かしてもらおうといったような、ね、全部が全部いうことにそむかぬということはできんけれども、ね、一言だけでも聞かせて頂いてそれを守らせて頂くという信心がです、こりゃまさかの折ではない、そういう信心こそが私は神も助かり氏子も立ち行く、両方からの恩人ということになるほどしのおかげが頂けるとこう思うのです。
両方からの恩人ということは、神も助かるということ。氏子も立ち行くということ。ね、その神も助かるという、ただ氏子だけが助かっただけではらん。
その時助けて頂いたそのことが忘れられずに、それから金光様の言われることを聞くようになり、それからおかげを頂いていくというようなです、ね、信心生活ができるところからです、両方からの恩人ということになる。
ね、神様が助かってくださる。
昨夜の御祈念に合わせて、ある方、ちょうど十年前にもう医者が難かしと言われた病気を奇跡的に助かった。おかげを頂いて今日まで信心が続いておる。ちょうど満十年になるから神様にお礼を申し上げてくれと言うて、親子四人でま、さまざまなお供え物を用意されましてね、お礼を言うてくださいというて参拝されました。で、昨日夜の御祈念に合わせましてそのおかげを頂かしてもらった。
親子四人でここへ出て見えられて孫さんが、ま、ようやく満一歳ぐらいなんですけれど、ようやくまあ、かたことにものが言えれるぐらいなんです。したらおばあちゃんと一緒にここへ出て来てから、おかげ頂きましたというてこう頭を下げた途端にここでね、もうがっくっちゅうごとここにこぶができるぐらいにこう打ったんです。
ね、それでもうああーんち泣き出す寸前にちょっとこう頭を上げた瞬間ね、ここの御神前の電気が全部、あのお祭り仕えるからというて電気つけなさいち言うとったもんですから、付けたのとこう上あげた時に電気が付いたのが一緒になったわけです。
ほいけんもう泣きべそ顔してこうしよったら、こう上げた顔が電気がついたもんじゃけんで、うわぁ電気が付いたち言うちから笑い出したんです。もう手に口を手にこう当ててから泣き笑いをするんです。一生懸命、こぶがでちょる。だから私どんが信心させて頂いてね、そりゃもうほんなこて目から火の出るようなこともいわばあるわけなんですよ。または火の出るどころか、目の前が真っ暗になるようなこともあるんですよ。
けれどもね、瞬間に光がパッとつくようなおかげを頂くから、痛いけれども喜ぶになるのです。私どもがね、そこんところがね、私日頃の信心がものを言うてくるんだとこう思う。その方は、その方じゃなからりゃでけけんここで御用をさせて頂いております。
ね、十年間その後においてです、そういう御用につこうて頂いておるということが有難い。
これからも私の命のある限りそういう御用に使うて頂きたいという願い。しかもそこに日々お礼は申し上げておりますけれども、それこそ涙ながらにです、十年前のことを思わせて頂いてからあの時助けて頂いたおかげが、ね、十年間にとても、ま、嫁ごどんもらうといったようなこつはまあ、夢のように思うておったことが、嫁ごをもらうことができるようになり、しかも子供まで、孫までできるようなことになり、ほんとに素晴らしい有難いことにならせて頂いて。あんとき死んどりゃ、それこそ息子の嫁ごん顔も、いや孫の顔も見ることはできなかったであろうけれども、おかげを頂いて今日こうやって健康のおかげを頂き御用をさせて頂いておるということが有難い。
今度その夫婦で働きよりますが、嫁さんがえらい給料の良くて、久留米の方からどうでんこうでんというて雇いにみえた。けれども時間があれだから、そのここに自分がお参りをすることが御用、さ、月次祭なんかん時に御用さしてもらうことができん。だから給料は高いけれども、ま、いまんところならばこうして御用もできるし、お参りもできるから給料は安いけれども、いまんところで辛抱してくれんのと言うごたあるふうで、ま、おかげを頂いておりますというて昨日そんな話もしておった。
ね、助けて頂いたそこんところに、神も助かっていく働きというものができてきよる。
ね、先程自動車のおかげを頂いた田端さんはなるほど今お参りして今でも見えますけれどもです、なら五人乗とって助けて頂いた、助けて頂いたということはです、ね、それだからてその人たちが信心になったわけでもなからなければ、もうただふが良かっただけで済まされたかも分からない。
ね、もう忘れておられるかも知れん。ね、だからそういう助かりでは神も助かりにはならないことが分かるでしょう。ね、私どもの助けられるということがです、そのまま神の助かりに繋がっていくほどしの、いわゆる両方からの恩人と、金光大神が、金光様の信心を頂いておったからこそ今日があるというおかげと、また天地乃親神様もです、ね、そのことを境に助けられたことを境に、このような信心の生活ができていくようになって神様有難うございますと日々神恩報謝の生活ができるということがです、神の助かり、ね。だからそういう助かりを目指させて頂いておかげを頂いていく、いってこそ初めて両方からの恩人ということになるのじゃないでしょうかね。
一辺助けてもろうたことがあるというだけの助かりでは、だから両方からの恩人ということにならない。そういう私は信心を土台にしての信心、いわゆる金光大神の教えてくださること、金光大神にお取次ぎを願って、本当はお取次ぎを頂いて帰らして頂く生活。
そういう生活がでけておってです、ね、金光大神助けてくれと言えばまさかのときにはどんなおかげでもくださるといったようなおかげが頂けてくる。そういうおかげこそがここでは願われておると私は思うのです。
ね、金光様の信心しょりゃ、まさかん時にゃ、金光様と言うただけで助けられるからというのではなくて、ね、そういう助かり方ができれる信心を頂かしてもらおうと。ね、天地乃親神様が仰っておられますように、ね、神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神であると、そこんところを私どもがです、ね、私どもが金光大神のお取次ぎを頂いて助かっていくということがです、とりもなおさず親神様のお喜びに頂けれるようなおかげにつながっていく信心を目指さして頂くというおかげをね、頂いていく。そういうおかげの世界こそがです、金光大神取次ぎの道の顕現と言うことになるのです。
ね、金光大神取次ぎの道の働きということ、が、ね、私の世界にそれが広がっていく。
ね、それを願ってやまれないのが天地金乃神様であり、それをそのようにお取次ぎをしてくださるのが金光大神様。なるほど両方からの恩人であるということが分かります。
ね、そういう信心をさして頂いていく時に、私どもの日常生活のうえにもです、ね、たとえばです、あー、困ったなとか、ね、難儀なことだなというなことがよし起こってもです、次の瞬間にはね、それこそ目から火の出るごたある痛い思いをするような場合があってもです、頭を上げた瞬間にはもうパッと光がつくようなおかげが必ずとものうておる。私どものそういう信心には。だから痛い、そりゃもうほんとに痛いけれども、ね、けれども有難いという信心生活ができるわけなんですよね。どうぞ。